« 渡辺みえ子著『語り得ぬもの:村上春樹の女性表現』 | トップページ | 文学言語の探究 »

2010年7月 9日 (金)

谷崎潤一郎「母を恋うる記」

研究史においてベタな母恋の夢物語として作家の実人生とつなげて解釈されてきた作品だが、それ以外の解釈もできよう。
ここで採用するのはロマン主義の回復という枠組みである。確固たる自己と対象との一体化という幻想は一見ベタなロマン主義そのものと目されるが、テクストは他者性、断片性、対象との距離化というモダニズム的な要素をもっているのではないか。モダニズムはなるほどロマン主義を嫌い最先端を指向するが、その新しさへの指向性は無根拠である点でロマンティックな幻想となる。そして、ベタな感傷性は、ロマンティックなモダニズムの現れと言える。
さて、テクストの世界は光と闇の二元論によって構成される。光は私の意識の及ぶ世界として透明な空間を構成し、闇は不透明な障害の世界を作る。悲しみはえたいのしれないどこからか現れて私を包み、テクストは私の空間移動を経てそれが解消されうる場へと至る。
ただし、それは統一性・一体性とは別物である。夢のテクストにおける行動する私を外側から観察する私という私の二重化は断片化として理解されねばならない。さらに音曲はリズムによる非理性的な行動・変転をもたらし、私を母なる女性へと誘う。また涙は感傷性の強度を示し内面の共同体を形成するのであるが、新内流しの女の涙は当初は隠されるようにシニフィアンとシニフィエはずれていく。同様に、私の恋い焦がれる母との再会も、実際にはそうではないにも関わらず、最初の老婆の場合は私が一方的に重ねて拒否され、次の流しの女は異なることを私が当初期待するが女から重ねていくようにそれぞれ実体としては異なる女性に母を重ねていくが、そこには抜きがたい距離が存在する。さらには覚醒後においては母は既に亡くなっているのであり、母との一体化はフェイク・死いずれにせよ回避させられてしまう。
よって、「母を恋うる記」とは、一見本質的なベタな感傷を他者性・断片性・距離化によって構成するテクストなのである。

と三十分で思いついた内容をアップする。手書きだと三十分だけど打ち込むと一時間。なぜ?まあこんなことをここで書いているということは、このテクストでは論文を書くことはないのだろう。きっと。多分。

|
|

« 渡辺みえ子著『語り得ぬもの:村上春樹の女性表現』 | トップページ | 文学言語の探究 »

MEMO」カテゴリの記事